2003年2月23日、プロスノーボーダーとして人気実力ともに絶頂だったジェフ・アンダーソンが来日中の事故により亡くなり、世界中のスノーボーダーに大きな衝撃を与えた。あの日から14年。ある人には過去の出来事、ある人には今日も忘れられない悲しい出来事となった。そして今も続いているこのSNOWBOARDINGの世界には彼の死を知らない子供たちも出てきている。ジェフが他界した10年後に兄のビリーが始めたJLA banked slalomは今年で5年目を迎えた。2017年3月10〜12日の3日間は、彼らの育ったマンモスマウンテンにジェフを愛したスノーボーダーとその子供たちが集まった。
Text: Yukie Ueda
“JLA” というタイトルは
ジェフの本名 “Jeffrey Lin Anderson” の頭文字
私は当時チームメイトだったジェフの兄ビリーを通じて来日しているジェフと過ごした時間もあり、あの頃は受け止めきれずどこか別世界のことのように感じていたと思う。今になってようやく、受け入れられた気がしている。
今回私が参加したJLA banked slalomは今年で5年目を迎えるジェフ・アンダーソンをたたえる愛のこもったバンクドスラロームの大会。3日間の大会期間中、会場には多くのライダー達が集まった。世界の有名ライダーをはじめ、ローカルライダー、白髪や皺を携えた元ライダー達も参加してる。懐かしい顔に再会してみんな嬉しそうにハグしあい、まるでジェフが年に一度みんなが再会して騒ぐ機会を作ってくれているかのような雰囲気に包まれていた。
ここカルフォルニア州にあるマンモスマウンテンは世界トップクラスのパーククオリティーを誇るスノーリゾートだ。ここには日々世界中から多くのトップライダーが集まり、またこの地からジェフやビリーのように世界へ羽ばたいていくライダーも数多く生まれている。
大会初日の朝、この大会を開催しオーガナイズするビリーがマイクを持って話し始めた。ビリーはこのイベントへの想いを語ると、彼の目には涙が溢れ、涙を拭いながら集まったみんなに感謝の気持ちを伝えた。
14年経っても信じられない出来事、大切な弟への想い、ビリーの気持ちが会場にいたみんなの心に響いていた。誰もが今を生き、楽しみ、滑れることの大切さをかみしめた。”今日という日を思い切り楽しもう!” そんな空気が会場いっぱいに溢れていた。
その後ジェフの母親が、JLA基金(ジェフのメモリアル基金)はマンモスのvolcom brothers skatepark や小学校に寄付をし続けていると話した。この大会も含め、ジェフの生前の希望であったマンモスのスケートパーク設立と維持は、子供達へより良い環境を作るために今も大きな役割を果たしている。私自身はもちろんのこと、スノーボードが大好きな我が子に対しても今回ここに参加できたことの意味を更に深く感じた。
カリフォルニアの真っ青な空の下、みんなの笑顔とアグレッシブなライディングによりイベントは進行していった。今この世界を代表するライダーも、これからのスノーボード界を背負う子供達も大勢いた。
プロクラスで優勝を果たしたのはバンクーバーやソチオリンピックにアメリカ代表として出場したGreg Bretz。さすがの滑りだった。
そして何よりも熱かったのはプロマスタークラス(40歳以上)の面々。ビリーもその中の一人だ。プロクラスは2本の合計タイムで競い合い、表彰台にはいぶし銀な面々が並んだ。1位Roan Rogers、2位Tim Gallagher、3位David Sypniewskiというラインナップ!そして準優勝のTimは2歳の娘を腕に抱きながらの表彰台だ。
実は後からビリーのタイムを見ると2本目のタイムが1位のローンロジャースの最速タイムを上回っていた。マスターで一番早かったのはビリーだったのだ。さすがだ。
今回の大会に数多く出場した子供たちの中にはビリーの娘、Jeffrey Andersonもいた。ジェフの名前が付いた6歳の女の子だ。彼女は素晴らしい滑りで見事優勝を果たした。
何だか嬉しくてたまらなかった。叔父さんになったジェフが見たらどんな風に喜んだだろうと想像した。時は経ち、新しい命、新しいスノーボーダーがこうして生まれていると実感した瞬間だった。
今回私がこの大会に出場することになったキカッケは、長年のスノーボーダー仲間でもあり共にカリフォルニアに住む高橋 玲くん(カーメイトUSA)の、「子供のクラスもあるし、俺たちも出ようぜ!」という誘いがきっかけだった。アメリカと日本で育ち、プロスノーボーダーとしても業界人としてもキャリアを積んできたレイくん。私がアメリカに来てからもスノーボード業界とこうして繋がりを持てるひとつには彼の存在も大きい。彼は堂々プロマスターのクラスで6位になった。素晴らしい快挙だが、本人は優勝する気満々だったらしく相当悔しがっていた。既に来年に向けて燃えている。
そういう私も我が子の大会デビューがメインで自分のことは二の次だなんて思っていたのに、大会当日の朝、山に上がるとモードが切り替わるのがわかった。『やるなら思い切りぶつかって精一杯やる!』ああ、いつどこに忘れてきていたのだろうこの気持ち。私にとって15年振りの大会。時を飛び越えて、私は『選手』になっていた。その気持ちは、初日のビリーの言葉と涙が呼び覚ましてくれたのかもしれない。やるなら本気で、今日という日を悔いなく精一杯。本気でやってこそ、後で笑えるのだ。結果がどうだろうと。
女性にはMOMSというクラスがあった。その名の通り、母親たちのクラスだ。これを侮ってはいけなかった。長年滑り込んでる強豪がわらわらと集まっていた。ママたちは出場する我が子にキスしてハグをして、自分の身支度を整えていった。私は感じたことのない高揚感に包まれた。緊張感に包まれている息子にキスをして送り出した。そして今度は息子に「ママがんばれー!」と送り出されるのだ。新しい種類の感情に包まれ、母親になって初めての大会がスタートした。
そういえば、バンクドスラロームは私にとって初めてだった。滑り方もろくにわからず突っ込みすぎて大転倒もしたが、私の初めてのバンクドスラロームは2位という結果に終わった。表彰台というのは本当に気持ちが良くて嬉しいものだということも、思い出させてくれた。
ラッフル抽選会ではジェフのお母さんがマイクを持って「抽選券の後ろに自分の名前をちゃんと書きなさい〜!」なんて叫んでいるし、ビリーの娘たちは表彰式のプレゼンテーターや抽選会のくじ引きなど大忙しで手伝っていた。もちろんビリーの美人な奥様も、イベントの裏方で動き回り大会にも出場していた。
ジェフの家族がこの大会を運営している。それを支えるローカルやアメリカのライダーたち。ジェフを想って動くパワーがみなぎっている。そんな印象が強く残った。
『14年前あなたは何歳でしたか?』
そこから時の止まったジェフと、新しく生まれた命や変化しているスノーボード界。私たちが14シーズンでやってきたこと、これからの未来にできること。それはどれほど価値のあるもので、どれほど愛しい時間なのだろう。
私は、語りながら涙の溢れたビリーの姿を見て、元気にイベントを仕切るジェフの母親や、ジェフと同じ名前の付いた女の子が果敢に滑る姿を見て、彼らファミリーから大切なことを教えてもらえた。
ジェフが好きだった人も、ジェフを知らないスノーボーダーにも、彼の残したスノーボーダーとしての生き方とその滑りが心に刻まれますようにと心から願いたい。
上田ユキエ
1973年1月22日生まれ。カナダウィスラーでスノーボードを始め23年、ハーフパイプやビッグエアーなどの競技を経てバックカントリーの魅力にはまる。現在はアメリカに移住し5歳の息子を育てながら自らのプロ活動を続ける傍ら、キッズと母親のプロジェクト(LILKIDS&MAMA)や日本の若手をアメリカで経験させるキャンプ(CALI LIFE CAMP)などを運営している。
SPONSOR: K2 SNOWBOARDING, Billabong, MORISPO SPAZIO, NEFF, RONIN, ZOOT, CORAZON SHIBUYA, LALALATV
Jeff Anderson Tribute