久々のブログ更新となりました。
1年も空けて、いろいろ考えましたが、今回は言いたいことがあって書くことにしました。
要すると、野望を持とうぜ!ということを書いておきたいと思ったということです。
とにかく周りには薄い反応や、内心(今はそんなん言ってても若いし仕方がないな)とか思われていたのかもしれませんが、10代の時からスノーボードのプロになって外国とかも滑りまくりたい!ビデオに出てくる場所に行ってみたい、とか思ってスノーボードのプロになるためだけのことだけはしていました。地元のエネオスでバイトして、(日石だったかも)迷わず全額ニュージーランドのために使う。また稼いで、リフト券代に使う。高校に通っていることが時間の無駄に感じて感じて半グレ(漫画読んでるだけ)精神状態でしたが卒業してスノーボードしかしなかった。あとはバイト。中2からサポートしてくれた当時の長野市BRONXでバイトもしたし、もっと稼ぐために塗装屋(Make雪板のあっちゃんんところ)行ったり、造園やったり、草刈り、土木もやった。唯一バッくれた仕事があって、それは国道の植栽の草むしりだった。映画ジュラシックパークの一番最初、大事なレポートを運んでるドライバーが運転中に食ってたピザを落とし、わっ、わっとやってるうちに事故ってそのレポートは届かずに例の島では恐竜が増えすぎて手に負えなくなる、という、その交通事故が想像つくように、草むしりでラインをいじってるドライバーにうっかり轢かれて死んでたまるか、こんな仕事俺はできねえ!と思ったからだった。派遣でピンハネする人にも我慢できなかった。
とにかく、プロで生活するために何でもやったる、という情熱があった。17歳でプロ資格を取ったがそれがイコール収入にはつながらなった。subtle,DC,Conceptから30万円もらえたけど。めっちゃ嬉しかったけどおいおいこんなんじゃ何にもならんよ、と思ったのは覚えている。何だよプロ資格って。って。10年もそれは続けなかった。で、一発どかっと行ったる、と思ってTOYOTA BIG AIRに出ようと思った。当時はB7ビタ着すればファイナルは余裕な感じで、俺はそれができたから(いまでもしますぞ)エントリーしていた。それにはプロ資格が必要だったから持っててよかった。
ところが、その2週前くらいに、日赤の近く(怖)のストリートのハンドレールで夜中の3時頃(何時までやってんだ)にボードを引っ掛けてスッパコーン!と後頭部を駐車場の地面に打ち、KO、ゲロ、即病院、緊急で何もしてもらえずまた昼間来て、と言われ家に送られると、自室で30時間くらい眠ってしまった。よく起きれたな、と。日付がよくわからん上に歩いてもフラフラ、また病院へ行くと脳神経外科へ送られ、何と片目のピントが合わない、、ことに気づく。お医者様からは、うん、何もできない、自然治癒で治れば治るし、そうじゃなきゃ一生そうかも、と言われ途方に暮れる。
TOYOTAどころではない。2週間休んだ。で、よし、俺は片目のSnowboarderで行こう。と思った。片目でも滑れるし運転もできるし、と。そこで(何と来シーズンからクローズが決まってしまった)飯綱リゾートスキー場のナイターへ行った。やっぱり片目じゃ難しくて、慣れなくて、ぼやぼやの片目を無理やり使おうとしたり、片目でやったり、としていたら、何と帰りの車の運転時にピントが少し合うようになった。次の日から使いまくって、「見せろ、、俺に見せろおおお」と歯を食いしばって怒りや悔しみ、煮えたぎるパワーで目を使いまくった。ら、4週間で元に戻った。
。。
それが19。
そこから、稼げるであろうプロスノーボーダーのスタイルはどうでも良くなった。自分にとって難しいことに向き合おう、と思った。TOYOTAのチャンスも逃したし、次の年までそこにフォーカスしていられなかった。バックカントリーでうまいスノーボーダーがかっこよくなってしまった。スキー場でカッコつけれて、軽く風を切っていたのにバックカントリーは下手だったから。というかその頃プロSnowboarderで活動する泉ケンタロウさんや小林ジュンジさんだとか、あげだしたらきりがないけどどんどん渋い人たちに会えて行って、10代の勢いのままジャンプとバックカントリーに傾倒して行った。色々と生意気で、一度スポンサーをなくしてしまった年もある。0ではなかったけど、模索していた。
若くて、かっこいいということにやたら凝り固まっていて、ダセーことは絶対しねーみたいな、狭い視野で好き勝手なことを言っていた。
24の冬、今度はストリートのハンドレールではなく、森の、レインボーログ(木が自然に倒れてアーチになってるやつ)をこする撮影をしていて(それがカッコよかった)、スピードを足して、足して、まだ足りず、3本目のトライ、スピード出しすぎでアプローチのカーブを曲がれず、木に激突、また気絶。この時は宇宙に行ってしまって臨死体験的な体験もしてしまった。気絶から覚め、状況を理解し、熱い脂汗と冷たい諾々の汗、虫の息、、で、口から血ヘドを吐いた。やっベー、死んじゃいそう、でもすでに生き返った後なんだけど、、みたいな、で、救急車で自分のアパートの前を通過してまた日赤へ。それで俺は脾臓摘出手術をして一命をとりとめた。
3週間くらい入院して、1ヶ月くらい休んで、4月の奥只見で復活した。パイプでフロント9もした。俺いけるわ。と思った。
25で親父に、いい年だから就職すれ、と言われた。ここまでやって来てそれは無理。とかわした。まだまだこれからだ、と。
27くらいだったか、まだストリートもやってたしフラット着地がカッコよかったのでクラッシュもストンプも繰り返した結果、ヘルニアになりかけぎっくり腰で立てなくなった。
それからようやくいいお医者様(松本市 渚整骨院)に出会えて、体について、食について、勉強させていただいたし、(長野市 PCCパーソナルコンディショニングセンターでは)トレーナーもついてくれて腰や首を守るためにコアトレーニングも始めた。その頃Snowboarderは絶対ジムとか行っちゃダメだとか思ってた考えは少しづつ時代に合わせて変化して行った。
20代はめちゃくちゃやりまくった。視野は狭かったけど研ぎ澄まされて集中していた。回り道もしたようにも思えたが全て必要だった。
20代終盤から全てが実を結び始めた。どんどんノって来た。やっぱりノリものだしな。と感じた。
それからいい波が来まくって今に至る。
いいと思ってればいい というのも大いにある。不満なら不満でしかない。身をわきまえて、周りを確認して、スポンサーに対して自分がするべきことを考えたし、やりたいようにやるレベルは上がりに上がっていたので既成概念なんかない自分でいいと思ったらそれをやる。そのために集中する。(関係ないことに労力を使わない)バイトもサッシ屋が調子よく危なく職人の道もちらっと見えてしまったほどやった。夏働いて、冬自由に滑る人生もあるな、とか。
でもまた戻った。スポンサーのおかげではあるが、それを引き寄せることもできていた。結果的に。
で、2018、スノーボードしかしていない。やりたいこともやるべきであろうこともたくさんあってとぼけてる暇なんかあるわけでもないが、ここまで突っ走って来たから突っ走り方はわかってる。時に自分は幸運にも夢がかなった。
10代の頃、自分には才能がないと思った。あんな人やあんな人みたいなことができたら超かっこいいのに、と思っていた。でもずっとやってたら大丈夫だった。その頃一緒に滑った人たちとは疎遠になった人もいれば今も波乗りしたりするもいる。みんな問題ない。みんな幸せそうだ。おれもやりたいようにやってる。楽なわけないしそういうことでもない。楽しんではいるけど。悔しい、辛い思いはいつだって起こる。誤解されたり、ハメられたり、また怪我したり、事故ったり、飛行機乗り遅れたりチャリンコわすれて帰って来たり、、大事なお金、無駄にしてしまったり、なんでもある
要するに
特におれより若い人、やるべきだ。なんでもいい
未来のことを知っている人なんかいない。知っていると言われようが関係ない。未来は自分で作れるし、もう、数時間後、明日が既に未来で、だから未来は自分で創れる。自分しか創れない。他の人にはわからない。
自分でどうなるかわからんことに踏み出すことほど面白いことはない。失敗したらやり直せばいい。遅いということはない。早いということもない。感じたら、やる。それしか自分を満足させて幸せにする術はない。充実してれば周りの人にもいい影響を与えられる。頑張ってる人は輝く。なんでもいい とにかく腐ってたらいかん 全てはOK
もう、あの、テニスの人みたいだけど、これを読んで少しでも誰かがやる気になってくれたらと思う。
このブログを一言でまとめると、ポジティブでいこうぜ!ということである。
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家族、仲間、全てのお世話になった方々、スポンサー、それと自然 に最大限の感謝とお礼を。
2018/6/22