白馬が生んだ生粋のスノーボード野郎、小林優太インタビュー。大怪我を乗り越えた先に見えるこれからのスノーボードライフ。<前編>

白馬・八方尾根の裾野で実家が営む料理屋「こいや」で生まれ育った小林優太。裏庭とも言える八方の壮大な山並みに囲まれ、スノーボーダーなら誰もが憧れる最高の環境で育った。そんな生粋のローカルは、白馬カルチャーに揉まれ数々の経験を重ねながら、昨シーズン大怪我を乗り越えカムバックを果たす。このインタビューでは、白馬が生んだアンダーグラウンド・ローカルヒーロー 小林優太がどんなやつかを伝えたい。
Edit: GAISU

幼い頃から馴染みのある、八方スキー場までの道。

HAKUBA LOCAL LIFE

-優太は生まれも育ちも白馬なんだよね?
じいちゃんの実家がもともと大町の隣の隣にある池田町っていうところで。親父が高校生ぐらいの時にそこから白馬に引っ越してきて、じいちゃんが八方で料理屋の「こいや」を始めたんです。だから俺も生まれた時からそこに住んでました。3歳くらいからスキーを始めたんですけど、なんか体育会系の縦社会があって…、それがちょっとめんどくさくて小6でやめちゃいましたね。スノーボードは高校に入ってすぐ始めた感じです。

-高1でスノーボードを始めたきっかけは?
その頃大町の同級生の友達で結構不良のやつがスノーボードをやってて「かっこいいからやろうぜ!」みたいな感じで誘われて。八方で何回かやってるうちに「これクソ楽しいじゃん!」みたいな感じになっちゃって。そこからどハマりしちゃって。で、スノーボードを始めて2年目くらいに、知り合いに誘われて板をもらえるようになって。白馬でどっぷりハマった瞬間がそのあたりです。

-ゲレンデは家から近いし環境はめっちゃ良かったでしょ?当時の白馬はどうだった?
毎日滑ってましたね。いろんな場所からみんな白馬に集まってきて、その頃もめちゃくちゃアツかったですよ。年が近い人もいたけど、先輩たちが各地方から集まってきてたんで、いろんなことを教えてもらいましたね。その時目立ってたのがタスクさん(松浦 将)とか。もちろんコンちゃん(今野 昇)もいたし、地元だったらケンくん(渋谷 謙)も。みんな憧れというか、めっちゃうめーって感じで。

-高校生活はどうだったの?
高校は地元の白馬校に通ったんですよ。友達がバイクを持ってて乗り回して、朝まで酒飲んで、みたいなありがちな高校生活。だけどちょっと悪さして学校をクビになってしまって…。そこから世間体的にも白馬に住めなくなって、島流し的な感じでひとりで北海道に行ったんですよね。親から「北海道へ行ってこい」って言われて(笑)。それが高2ですかね。

-北海道ではどんな生活を送ってたの?
小樽の隣の余市っていうところに高校の中退者を受け入れる学校があって、寮生活をしてました。北海道でもスノーボードはやってましたよ、たまーに。高校の時はほどんど時間がなかったんですよね。寮生活なんで足もなくって…。その学校はちゃんと卒業してそのあと札幌に行ったんですよ。

-札幌には何をしに?
スポーツ専門学校に行ったんですけど、札幌の街が楽しすぎて遊んじゃって速攻行かなくなっちゃって。それで19歳か20歳くらいで地元に帰ってきて再び白馬ライフが始まった感じです。

昨シーズンの八方BCで豪快なスプレーをかました優太。 Photo: Tsutomu Endo

-白馬に戻ってきて当時はどんなライフスタイルを送ってたの?
朝と夕方は働いて昼間はずっと滑りまくって。もちろんパークばっか。今だったら考えられないですけど。ジブはそんなにやらず、ひたすらどんだけデカく飛ぶか、みたいな。当時、名木山に結構でかいパークがあって、20mキッカーとかもありましたからね。

-当時八方で同世代のライダーは誰がいた?
いないんですよね、それが。まあ八方はスキー色が強かったんで、今もいないですけど。当時は籠りの仲間たちとずっと滑ってましたね。

-その頃大町のライダーやHACHIクルーとの絡みはなかったんだ?
その時は全然知らなかったです。マッキー(北江正輝)ともその頃は絡みはなくて、(山崎)恵太はまだ高校生だったかもしれないですね。大町の先輩たちは前から知ってましたけど、なかなか一緒に滑る機会がなくて。俺が25~26歳くらいの時に一緒に滑るタイミングがあったんですよ。同じゴンドラに乗って「一本滑ろうよ」みたいな。(小松)吾郎さんとか(仁科)正史くん、ヨネさん(YONEFILM 米倉洋晃)とか励さん(フォトグラファーの遠藤 励)やユウくん(西山 勇)、(長澤)優作さんも。そういうタイミングで一緒に滑って「カッケー」って思って。俺はその時は全然良い滑りはできなかったけど、それで「俺ももっとやんなくちゃな」ってなったの覚えてます。

OTARI STREET WALL. Photo: Tsutomu Endo

-彼らのどこに感化されたの?
なんだろうな…。パークを卒業してフリーランし始めた時だったからスノーボードのスタイルはもちろん、その頃の白馬はパーティカルチャーがあって、先輩たちはDJとかもやってて。そんなライフスタイルもすげえカッケーって刺激を受けてリスペクトみたいな感じになったんすよね。当時は毎日白馬でパーティやってましたから、俺も行きまくってましたね(笑)。まあ若かったから、遅くまで遊んでても次の日全然滑れてました。

-それから優太のスノーボードスタイルはどう変わっていったの?
その頃からパークにはほとんど行かずに、山でパウダーばっかり滑ってましたね。ゲレンデの中でちょっと開いててパウダー残ってる場所があったらそこに突っ込んで、とりあえずスプレー上げるみたいな。パウダーに貪欲になっていった感じです。


HACHI CREW結成

-今も活動を続けている「HACHI」はどういう流れで結成しようと思ったの?
俺が20代の当時、大町にHYWODの前身のPRS(MOVIE)っていうクルーに(三宅)恭太くんもいて。恭太くんは酒も好きだし、音も好きだったから一緒に遊ぶようになって。バックカントリーを最初に教えてくれたのは優作さんなんですけど、教えてもらってから恭太くんと2人でも行くようになっていきました。マッキーから「俺も一緒にやりたい」って言われて。そんな時に励さんから「HACHIっていうクルーを作れば?」っていうアドバイスをもらって、俺と恭太くんとマッキーの3人でHACHIを作ろうかっていう話をして始めた感じです。

-山崎恵太はどのタイミングでHACHIクルーに合流したんだっけ?
実はあいつが17歳くらいの時から山へ連れ回してたんですよね。夜のパーティにも連れ回して。そしたらあいつは音楽の才能があってミュージシャンとしても炸裂しちゃったんですよ。まあ、だから合流は自然の流れって感じですかね(笑)。

-それで恭太の事故があって…。
いやー…きつかったっすね、やっぱ…。まさか…仲間が山で死んじゃうと思わなかった。救助に行ったんですけど、最初「ちょっとやられたんで来てください」って恵太から連絡が来て。俺はこいやで仕事してて、その時は全然大したことねーんだろうなって思ってたんですよ。そしてら何回も何回も電話がかかってきて。「マジすぐ来てもらっていいですか?」って。パトロールに電話して「こういう状況なんですぐ来てください」っていう話をして。担架代わりに超長い板を背負って行ったけど、全く通用しなかった。そういう場所じゃなかった。沢が深いんで、引き上げるのに雪を全部かいて道を作って。そこから先も全部深い雪なんで、もう半端じゃなかった。まあ、攻めてたっすよね。「もっと上手くなりてぇ」みたいな感じだったんだと思います…。

-大事な仲間をその事故で失ってしまったわけじゃない。それが自分のホームマウンテンで。その時何を思った?
……。やっぱり昔から一緒にやって来た仲間を失ったっていうのはデカかったですね、俺の中で。これからは絶対に山でそういう事故がないようにしていこうって。それに危険な場所の入り口にラインをつけるのは良くないって思った。ラインをつけるとみんな真似してついて来ちゃうから。他のスノーボーダーもそういうことにならないようにしたいって思います。やっぱり危ない場所には絶対行かないように。あの事故があってから、入る場所がわからないように心がけてます。

マウンテンフリースタイルを体現する優太のラインからのB3ミュート。 Photo: Tsutomu Endo

-スノーボーダーって、特にライダーは「攻める攻めない」って瀬戸際じゃない。その辺のリスクマネージメントはどう考えてる?
俺も撮影では「行っちゃえ」っていう時は今だにありますけど、普段のフリーランではやらないようにしてますね。でも良くないっすね「行っちゃえ」は。ちゃんと全部計算してやらなくちゃ。やっぱり前しか見えてないと危ないと思う、しっかり周りが見えてないと。

-その出来事があってから、HACHIとしてどう自分の気持ちを整理していった?
その辺から山下 龍とか佐藤太一がHACHIに合流してくれて。年下のやつが入って来て育ってくみたいな感じになったから、まだ前向きになれたのかなって思います。色々教えてやらなくちゃって…。今考えれば、そうなんだと思いますね、多分…。

小林優太インタビュー<後編>「スノーボード人生を変化させた自身の大怪我」へ続く。